富山の小中高の野球チームは全く意味のない勝利を手にすることがある

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人は全く意味のない勝利を手にすることがよくある。
成功だと思っていたことを達成したにもかかわらず、それよりもはるかに大事なことを犠牲にしてしまったことを突然に思い知らされる。

「7つの習慣」より

ここ近年、小学生の強豪チームが部員不足で存続できなくなったという話をよく聞く。
全国大会に何度も出たチームだが、部員が少なくなった。どうも少子化が原因というわけでもなさそうだ。
おそらく、このようなチームは
「チームの目的(チームが行きたい場所)」を間違えていることに気づかなかったのだろうと私は考える。
選手、親、監督。子の三者の行きたい場所もバラバラなのだろう。
「勝ちにいく」ということを全否定しているわけではないが
富山の小中高の野球チームは全く意味のない勝利を手にすることがある。

今年は当クラブの中学生には少し考えてもらおうと思っている。
いつか自分が競技としての野球選手をやめるとき、自分はどのような状況でありたいか。ということを。
単に、甲子園に出れる高校に行きたいとか、勝ちたいとか、上手くなりたいとか、打てるようになりたいとか、球が速くなりたいとか、そんなことはどうでもいいと私は考えている。

長く野球を見てきて
競技としての野球選手を終えたときに、
「僕は強いチームにいて勝ったんだ」
「僕は球が速い投手だったんだ」
「コントロールが良かったんだ」
「ホームランよく打ったんだ」
「足が速い選手とよく言われたんだ」
「僕は甲子園に出たんだ」「大学で野球していたんだ」
「プロにいった○○と一緒に野球したんだ」
とか言っている選手に、人格者は見たことがない。
野球道を歩んできた目的地が間違っているのだろう。
いつまでも夢から覚めていなくて、これではなかなか次の新たな世界で学んだり、活躍したりといったことができない。
夢を持つことも大事だが、引退後の自分を思い描くことも同様に大事なことだと思う。

私のこのクラブでの目的地は
「干場は全然野球を教えてくれなかった。わけわからんことばかり言っていた」。
「ついでに野球以外の競技までさせられた。だがその意味が今やっとわかった」。
と選手が、5年後、10年後、15年後、もっと先でもいい。
私が死んだあとでも、携わった選手らにそう言ってもらえる指導のあり方である。

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